• 僕たちの住むこの非常識な世界について

    ゲストBlog

    2014年6月27日 11:44

    異文化交流について書け、という大ざっぱなオファーを頂いた。このプラットホームの主旨に沿うか少々不安だが、思うところを少し書かせて頂く。

    僕は、19歳の時に、まさに若気の至りでNYに渡った。そして、当初3ヵ月の滞在予定だったが、あれよと言う間に24年ほどを彼の地で過ごした。3ヵ月が24年になった経緯は主旨から外れるので省くが、若く、凝り固まった世界観をまだ持ち合わせていなかったおかげで、割とフラットな目であの街を生きたと思う。

    ご存知の通り、あの街は、世界中の人種と文化が同居する、巨大なカオス(混沌)である。日本人の信じる、日本の中だけで育まれて来た常識は、ほとんど通用しない。今にも増して仕事を選べなかったその頃、僕は実に様々な仕事を、実に様々な異国人達と一緒にした。その中で理解したのは、文化背景が異なる者同士=異人間においては、人間として共有出来るコモンセンスが、恐ろしく単純化されてしまう、ということ。

    NY辺りでは、せいぜい殺人、窃盗、強姦くらいが、なんとか誰もが共有出来るタブーではなかろうか。ちょっとしたマナーや礼儀作法、日常生活の上の常識などに立ち入れば、そこにはすぐに果てしないカオスが拡がっている。しかもその一見絶対に見えるタブーでさえ、一旦先進国の文明圏を出てしまえば、宗教や慣習によって正当化されてしまうような地域が、まだ数多くこの地球上にはある。世界には、日本人には想像も出来ないような常識、感覚の人間が、想像も出来ない数いるのだ。

    僕は経験的に、現代に至っても、ヒトは全人類が共有出来る真善美の基準を持ち得ていない、と思っている。こちらから見て異常と思うことが、あちらから見たら異常であるという状態が、この世界の関係性の起点なのだ。人間は、自分の育った社会の常識を常識と信じ、その真善美の基準から外れられない者がほとんどだ。また、そうでないとその文化圏は崩壊してしまうから、それは群れとしての人間の防衛本能でもあろう。

    日本人は取り立てて内向的で排外的と言われるが、日本人に限らず、深化した文化を持つ人々は誰も、排他的な傾向が顕著だ。それも群れとしての防衛本能=文化の変質を拒む、という本能の為す業だろう。実際、自分達の生活のカタチ=文化を守ろうとすれば、必ず外と摩擦が起きるのが、人間の歴史だ。異文化交流などというものは、それが必要な現場では、誰もが好き好んでやっている訳では無い。

    ヒトはみな、自分の信じる常識の中で、居心地の良い世界の中だけで、生きていたい。しかし、国境が地続きで、コミュニケーションが途切れるとすぐに戦争や紛争が勃発する地域だったり、NYのように隣の異人と歩み寄らなければ、どうしようもなく生きていけない状況などが、現実にある。そういう場所で生きる人々が、衝突を回避する為に知恵を使って取るコミュニケーションこそが、本来の”異文化交流”の意義なのだろうと思う。

    安易に相手を理解したと思い込むのも、自分を理解してもらったと思い込むのも、どちらも大抵は勘違いだし、また相互理解=異文化交流である必要も無い、と僕は考える。相手を理解出来た、と思うその瞬間、ヒトは知らず知らずに自分の常識というフィルターを通して理解するのであって、その瞬間にすでに相手の実態を歪めている可能性があるのだから。異文化をそのままの姿で、自分のフィルターによって歪めること無く理解了解するのは、限りなく不可能に近い。

    僕は、異文化に触れたくば、まずはその文化の芸術を見るべきと考える。その文化圏の小説、映画、絵画、彫刻、建築、音楽、それらに触れれば、その文化を”感じる”ことが出来る。(料理を頂くのも良いが、これはやはり現地で食べないと、本物の味や雰囲気は判らない。特に日本にある外国料理の店のほとんどは、日本人向けのフィルターを通して、本質が歪められている。)

    ヒトはしばしば、マインドで理解しようとするよりも、五感で“感じる”ことで、未知のものにも寛容になれるものだ。その文化に生まれ育った人々が、何を美しいと思い、正しいとし、喜び、悲しみ、憎み、愛し、笑うのか。それらを知り、彼等のひととなりを想像することは、実際にそこへ旅するのと同義だろう。

    だから、最近、日本で外国映画をやたらと日本語に吹き替えるのは感心しない。子供向けのものならいざ知らず、例え言葉が全く判らず、字幕が無かったとしても、映画はその国の言葉で観るべきだ。

    安易な判り易さや説明過多は、コミュニケーションにおいて最も必要な”想像力”を殺してしまうのだから。


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